「平和の聖母礼拝堂」 ―レオナール・フジタ 贖罪のかたち―

「平和の聖母礼拝堂・フジタチャペル」 筆者撮影2017.8

2025年~2026年にかけて、藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886~1968)の生誕140年を冠した展覧会が多く開かれている。2025年は戦後80年にあたり、多くの第二次世界大戦の戦禍を顧みる報道番組が組まれていたが、あえて藤田の戦争画や戦争協力に深く言及する展覧会は少なかった。それを補完すべく、最晩年にフランスのランスに聖母礼拝堂を建立した藤田の宗教上の「贖罪」と、画家としての戦争責任について思いを巡らせてみた。



戦争協力とフランスへの帰還

実に20世紀は戦争に翻弄された時代であった。日本のみならず多くの芸術家が戦争に陰に陽に係わらざるを得なかった。中でも軍の依頼を受け、戦意高揚のプロパガンダである作戦記録画を最も多く描いたとされる藤田は、その積極的に見える戦争協力の行動によって、戦後、内外の世論や画家仲間からも戦争責任を問われ、日本画壇と決別せざるを得なくなった。これは、藤田のその後の人生と芸術活動に多大な影響を及ぼした。1950年、彼は日本画壇への疑念と失望を胸に、二度と日本に戻らない決意でフランスにもどった。その後フランスでの画業を再開、母子や子どもたち、市井の人々を描く風俗画、聖母子像をはじめとする宗教画を多く描き、1954年のフランス国籍取得と日本国籍離脱、1959年のキリスト教受洗によって、心身ともにフランス人画家レオナール・フジタとなったのは周知の事である。それにもかかわらず藤田の日本画壇への疑念、恨みは生涯消えることなく、苦々しい心情を持ち続けたのではないかと推察される。

「平和の聖母礼拝堂」建立





「平和の聖母礼拝堂」堂内フレスコ画、ステンドグラス等
 🄫Vill de Reims筆者撮影2017.8

レオナール・フジタが、最晩年の1966年に建立した「平和の聖母礼拝堂・フジタチャペル」はネオ・ロマネスク様式の三つ葉型ラテン十字の小聖堂で、内部はキリスト伝のフレスコ画で壁面全面を装飾(上図参照)、ステンドグラス、板絵、浅浮き彫り彫刻等で埋め尽くし、レオナール・フジタ愛好の中世キリスト教美術にのっとった、清楚で瀟洒な礼拝堂である。入口に立つと正面に見える主祭壇には、聖女たちに囲まれた「祝福の聖母子」が鎮座し、この聖堂が聖母に捧げられた礼拝堂であることを明らかに示している。


「平和の聖母礼拝堂」建立のねらい

一つ目は、画業の仕上げは西洋絵画の最高位とされてきた歴史画に挑戦したい、なかでも宗教画を描きたいという画家藤田の願いがあったに違いない。藤田は、渡仏後すぐの1952年には知人に礼拝堂建設の夢を語っている。20世紀フランスでは、多くの芸術家が参画した「聖なる芸術」運動があった。複数の芸術家によって合同で建てられた「アッシー教会堂」(1950年献堂)、マティスの「ロザリオ礼拝堂」(1951年再建)、ル・コルビィジエの「ロンシャン礼拝堂」(1955年再建)、コクトーの「サン・ブレーズ・デ・サンプル礼拝堂」(1959年内部装飾)等々である。また、藤田旧知の宗教画家、長谷川路可のイタリア・チビタヴェッキオにある「日本聖殉教者教会」(1950-54年、祭壇画等制作)、堂本印象の「栄光の聖母マリア・カトリック玉造教会」(1963年、祭壇画等装飾)等も藤田の念頭にあった事であろう。

二つ目は、藤田には若い頃より没後は自らの芸術に囲まれて葬られたいという願いがあった。日本にはもう帰らない決意で渡仏した藤田の、キリスト教に帰依する動機の一端がそこにあった可能性は否めない。実際に藤田と君代夫人は、この礼拝堂の小祭室のフレスコ画《最後の晩餐》の元に眠っている。


礼拝堂に込められた藤田の贖罪

礼拝堂が完成した時レオナール・フジタが言ったという言葉が知られている。「(礼拝堂を完成させ)これで、一生の贖罪をはたしたよ。」と藤田は語ったという。藤田は、この礼拝堂を崇敬する聖母マリアに捧げ宗教上の望みである自らの贖罪をはたした。教義上の「原罪」を背負って生まれた人間としての罪をあがなうという意味もあっただろうが、ここに、藤田なりの人生の「贖罪」、あえて言うなら戦争の時代の「贖罪」をも含んで読み取りたいと考える人は多いのではないだろうか。

この礼拝堂のステンドグラスの主たるテーマは「黙示録」である。主祭壇を取り囲む4枚のステンドグラスの中で、煉獄や地獄の様子を示す髑髏や化け物、母子、僧侶の姿と、冷戦時の原水爆禁止運動を結び付け、「原爆投下」「水爆実験」による被爆者への鎮魂、核の脅威への警告を読み取った人々がいた。このように、礼拝堂の名前の「平和」はあくまでも教会の平和であろうが、第二次世界大戦後の世界平和への祈りを読み取った人々もいた。


作戦記録画を描いた藤田は、戦時の国民の一人として協力した事、芸術家として古来より存在する歴史画の一環として戦争画を描いたことに悔いはないと公言している。一方で第一次世界大戦時も含め、残された多くの戦争孤児たちへの思いはひとしおで子どもたちへの支援や協力を惜しまなかった。藤田の没後、夫人によって立ち上げられたフジタ・ファウンデーションは、藤田作品の著作権料を資源とした孤児達のための基金である。藤田が1950年代に多く描いた、ひたいが大きく口元が小さい幼児顔にもかかわらず、大人びた一風変わった風貌の子どもたちは、藤田が第二次大戦後心ならずも故国を離れた複雑な心境を、彼らのもの言いたげな表情に重ねあわせた作品群と見ることも可能だろう。そして最晩年、礼拝堂を建立し聖母マリアに寄進して贖罪を果たしたことで、藤田の心はいくばくか安らいだであろうと筆者は考える。



主要参考文献
  • Caussé Françoice, La revue «L‘ ART SACRÉ », Paris, Cerf, 2010.
  • Foujita Monumental ! Enfer et paradis , Riems, Musée des beaux-Arts de Reims,Hazan,2010.
  • Musées de Reims, chapelle - foujita  [https://musees-reims.fr/fr/musees/la-chapelle-foujita/]



著者プロフィール






吉岡 泰子
(よしおか・やすこ)

博士(文学)東海大学大学院文学研究科文明研究専攻、2022年度学位取得。

【研究歴】
  • 博士論文『レオナール・フジタ「平和の聖母礼拝堂」―装飾に見る中世美術への傾倒―』、東海大学大学院文学研究科分明研究専攻、2023年3月受理。
  • 「レオナール・フジタのフレスコ画《キリストの顔》」模写並びに研究ノート、第7回フレスコ展にて展示、フレスコ普及協会、2025年。
現在、メタ美術史研究所、フレスコ普及協会、日仏美術史学会、地中海学会、美術史学会会員。



この記事の提供元


メタ美術史研究所とは

メタ美術史研究所は、定期研究会やWebコラムなどを通じて、美術や表現にまつわる問いを多角的に発信。個人研究者の支援や、イベントの企画、将来的には電子出版も視野に入れた活動をすることで、分野や立場を越えてつながる場を育んでいきます。

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