【オープンアクセス探訪】シャヴァンヌ、忘れられた巨匠 ー 日本に与えた影響と、風化、そして再発見
そこで今回の企画は、世界の主要な美術館が公開している膨大なオープンアクセスのデジタルコレクションの中から、日本ではあまり知られていないものの、美術史的に重要な画家たちを取り上げ、その作品と意義を紹介していきます。第1回は、メトロポリタン美術館のコレクションから19世紀フランスを代表する壁画家であり、象徴主義の先駆者でもあるピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌを取り上げます。静謐で詩的な画面構成を特徴とする彼の絵画は、ヨーロッパの象徴主義に大きな影響を与えただけでなく、日本の近代洋画家たちにも精神的な刺激をもたらしました。メトロポリタン美術館が公開する高精細画像を通して、彼の作品の魅力と、その背後にある思想的な深みを探っていきます。
忘れられた巨匠、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとは
19世紀後半のフランス絵画というと、多くの人が印象派を思い浮かべるでしょう。しかし、その陰で全く異なる理想を追求した画家がいました。ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes, 1824–1898)です。シャヴァンヌは、現実の光景を描くことよりも、「人間の内なる理想と静けさ」を形にしようとした芸術家です。彼の画面は淡い色調と穏やかなリズムに満ち、まるで祈りのような静けさを湛えています。
シャヴァンヌは、19世紀後半のフランスで活躍した画家で、のちの象徴主義の先駆けとされる人物です。リヨンに生まれ、古典的な美術教育を受けたのちパリで活動し、神話や寓意を題材とする大規模な壁画を多く制作しました。彼の作品は、印象派のような光や現実の描写を追うものではなく、淡い色調と静かな構図によって、人間の内面的な理想や精神の平和を表現しているのが特徴です。そのため同時代にはやや地味な存在と見られたものの、のちの象徴主義や、ゴーガン、ゴッホ、スーラらポスト印象派にも大きな影響を与えた画家として、西洋美術史では重要な位置づけをされています。
シャヴァンヌと日本との関係、その影響
日本でシャヴァンヌに初めて会って日本に紹介したのは画家の黒田清輝ですが、シャヴァンヌの名が広く知られるきっかけとなったのは、明治末期に創刊された雑誌『白樺』による紹介でしょう。『白樺』は西洋の新しい芸術や思想を積極的に紹介した文芸誌で、1912年(明治45年、大正元年)にはシャヴァンヌを特集し、彼の作品や思想を精神的芸術として評価しました。当時の『白樺』同人たち――武者小路実篤や志賀直哉、柳宗悦らは、芸術を人間の内面的な自由と理想の表現とみなす人道主義といわれる立場をとっており、その精神性をゴッホやセザンヌとともにシャヴァンヌの中にも見出していたのです。
この『白樺』による紹介を通じて、日本の若い洋画家たちはシャヴァンヌの静謐な構図や理想化された人物表現に強く惹かれていきました。青木繁や岸田劉生など、精神性を重んじた画家たちは彼の作品に写実を超えた真実を見出し、自らの制作に活かそうとしたようで、実際に劉生が残した手記にもたびたびシャヴァンヌについての言及がされています。このような時代背景からシャヴァンヌの人間の内面的な理想や精神を静かに表現するある種の美学は、日本近代洋画の根底に静かに広がっていきました。しかし、太平洋戦争を経て戦後になると、抽象や現実主義の潮流の中で評価が薄れ、また、印象派中心の西洋美術史観の影響が大きくなる一方で、相対的に象徴主義への関心の低さもあってか、現在の日本での知名度は高くありません。シャヴァンヌに関する企画展も2014年Bunkamuraザ・ミュージアムにて開催された「シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界」まで遡らなければならず、国内の美術館でシャヴァンヌの作品を所蔵している美術館も作品数も極めて少ない、まさに日本では「忘れられた巨匠」とも言える美術史的にも重要な画家なのです。
メトロポリタン美術館で見られるシャヴァンヌのオープンアクセス作品
メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art:通称「MET」と呼ばれています)には、彼の代表的な作品のいくつかが所蔵され、現在オープンアクセスとして誰でも高解像度の画像を利用することができます。これらの作品は、シャヴァンヌの独自の世界観を理解するうえで、貴重な手がかりとなります。ここでは、特におすすめしたいオープンアクセスの作品を紹介していきましょう。
Cider(シードル)
Artist: Pierre Puvis de Chavannes (French, Lyons 1824–1898 Paris)
Date: ca. 1864
Medium: Oil on paper, laid down on canvas
Dimensions: 51 x 99 1/4 in. (129.5 x 252.1 cm)
Classification: Drawings
The Metropolitan Museum of Art, Public Domain, via The Met Open Access
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437345
シードルとは、ノルマンディー地方などフランス北部で伝統的に造られているりんごの発泡酒のことですが、作品はそのシードルを、老若男女が準備する中、背後で裸の男たちが穀物を挽いている場面が描かれています。この作品は、シャヴァンヌのキャリアで最初の壁画装飾で、1864年にアミアンに新設されたピカルディ美術館のために制作された「Ave Picardia Nutrix(ピカルディよ、栄えあれ、養い手よ) 」の左右の壁面のための習作です。壁画装飾は、この地域の豊かな天然資源と、その理想化された遠い過去を称えるものだとのことですが、このころのフランスは、ギュスターヴ・クールベに代表される写実主義が全盛期、エドゥアール・マネの《草上の昼食》など印象派の兆しが見え始めた時期であることを考えると、全体的にフラットで落ち着いた色調は壁画の習作とはいえ、この時代の作品としてはちょっと異質に思えてきます。
The River(リバー)
Artist: Pierre Puvis de Chavannes (French, Lyons 1824–1898 Paris)
Date: ca. 1864
Medium: Oil on paper, laid down on canvas
Dimensions: 51 x 99 1/4 in. (129.5 x 252.1 cm)
Classification: Drawings
The Metropolitan Museum of Art, Public Domain, via The Met Open Access
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437348
上記の《シードル》と同様、ピカルディ美術館の壁画の習作。ここでは、フランス北部ピカルディを流れるソンム川に男性たちが橋を架け、女性たちが水浴びをしたり漁網を繕ったりしています。シャヴァンヌは若いころに旅したイタリアでジョットやピエロ・デラ・フランチェスカなど清らかで優雅な初期ルネサンスの壁画に深い感銘を受けたとされており、《シードル》と同様《リバー》も古代ギリシアに由来する理想郷であるアルカディアを描くことがこのころのシャヴァンヌ作品に通底するテーマとなっています。よってジョットやフランチェスカのような落ち着いた色調でありながらも、描かれる群像、人物に裸の人間が多いのもうなずけます。
Sleep(スリープ)
Artist: Pierre Puvis de Chavannes (French, Lyons 1824–1898 Paris)
Date: ca. 1867–70
Medium: Oil on canvas
Dimensions: 26 1/8 x 41 3/4 in. (66.4 x 106 cm)
Classification: Paintings
The Metropolitan Museum of Art, Public Domain, via The Met Open Access
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437349
これは、シャヴァンヌが「お気に入りの作品」としていた1867年の絵画(リール国立美術館所蔵)の小型複製だそうです。筆者もMET収蔵のシャヴァンヌのオープンアクセス作品の中では一番のお気に入りで、夜の静寂と水平線から半分顔を出す月の優しい光を浴びて疲れ果てた人々を優しく包む、青を基調とした静寂に満ちた色調も印象的な作品です。作品は、古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネイス』の一節に関連する場面だそうで、戦争からの束の間の(そして幻想的な)休息を描いているとのこと。「人から赤ん坊を抱きしめる母親まで、あらゆる年齢層の眠る人々を描くことで、シャヴァンヌは共同体の休息と保護のイメージを創り出している」とMETも解説しています。
Tamaris(タマリスク)
Artist: Pierre Puvis de Chavannes (French, Lyons 1824–1898 Paris)
Date: ca. 1886–87
Medium: Oil on canvas
Dimensions: 10 x 15 1/2 in. (25.4 x 39.4 cm)
Classification: Paintings
The Metropolitan Museum of Art, Public Domain, via The Met Open Access
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437350
タマリスクとはフランス語で、地中海周辺からアジアにかけての乾燥地帯に分布する植物であるギョリュウのこと。「女性の周囲に咲くピンク色の低木は、フランス南海岸によく見られるギョリュウを擬人化しており、ギョリュウのアイデンティティを強調している女性の官能的なポーズは、古代ギリシャの彫刻に触発されたものと思われる。」とMETのページで解説されています。筆者は最初に解説の「ピンク色の低木」という言葉に、全体を通してグレー調でピンク色か判断がつかず違和感しかなかったのですが、高精細画像を拡大してよく観察してみたら、確かに横たわる女性の周りの低木にピンク色の花びらが点在して咲き誇っているのが良くわかりました。このような微妙な画家の表現やタッチも堪能できるのもオープンアクセス化のメリットともいえるでしょう。
Inter artes et naturam (芸術と自然の間)
Artist: Pierre Puvis de Chavannes (French, Lyons 1824–1898 Paris)
Date: ca. 1890–95
Medium: Oil on canvas
Dimensions: 15 7/8 x 44 3/4 in. (40.3 x 113.7 cm)
Classification: Paintings
The Metropolitan Museum of Art, Public Domain, via The Met Open Access
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437346
セーヌ川を見下ろす林の中で、人々が陶器に絵を描いたり、建築物の破片を発掘したりしている。右手では美術学生たちがその様子を見守っている。この創作活動へのオマージュは、シャヴァンヌがルーアン美術館のために描いた三連祭壇画の中央パネルの小型複製だそうです。しかし、画像を拡大してよく観察してみると、筆者は右手の美術学生たちの格好がどう見ても当世風のファッションにしか見えず、この人たちだけタイムスリップして古代ギリシアの世界に迷い込んだかのように見えてしまって、なんとも言えない違和感を感じます。
The Shepherd's Song(羊飼いの歌)
Artist: Pierre Puvis de Chavannes (French, Lyons 1824–1898 Paris)
Date: ca. 1891
Medium: Oil on canvas
Dimensions: 41 1/8 x 43 1/4 in. (104.5 x 109.9 cm)
Classification: Paintings
The Metropolitan Museum of Art, Public Domain, via The Met Open Access
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437344
リヨン美術館のために制作した壁画を元に創作した作品です。笛を吹く羊飼いと布をまとった人物たちは、シャヴァンヌが美の象徴として崇めた古典詩情と優美に敬意を表したものです。また、絵画全体の落ち着いた色彩は15世紀と16世紀のイタリアのフレスコ画から着想を得たと考えられているとのことなので、ここにも若いころのジョットやフランチェスカに感動したイタリア旅行の影響がでているのでしょう。この作品が持つ夢のような静寂の雰囲気、淡い色彩、最小限の造形、ディテールは、内面的な理想や精神を静かに表現するシャヴァンヌの真骨頂ともいえる作品といえるでしょう。
これらの画像はいずれもメトロポリタン美術館の公式サイトで公開されており、ダウンロードや二次利用も自由に行えます。
今あらためて見るシャヴァンヌの魅力
シャヴァンヌは、印象派のように目を奪う華やかさではなく、むしろ抑制と均衡に美を見出しました。その静けさは、明治後期で日本で広まった当時の日本の画家たちにとっても共感しやすい静の美学として受け止められたようです。
現代の私たちがシャヴァンヌの作品を見直すとき、その魅力は「派手でないこと」にこそあります。均質な色調、穏やかな動き、柔らかな線。それらは見る者を急がせず、画面の奥に潜む思想へと静かに導いてくれます。
SNSの画像が氾濫する時代にあって、彼の絵は静かに私たちを引き留め、時間の流れを忘れさせてくれる不思議な魅力があります。メトロポリタン美術館が提供する高精細画像で拡大してみると、筆触の一つひとつが慎重で、抑制された色彩とリズムで刻まれているのがわかります。
まとめ──オープンアクセスで広がる美術の再発見
メトロポリタン美術館のオープンアクセスは、過去の巨匠たちの作品に隅々まで観察できる環境を提供し、現代の目で再評価する絶好の機会を与えてくれます。画家の筆致や息遣いも確認できるほど詳細なオープンアクセスの画像を通して鑑賞できるからこそ、シャヴァンヌの絵画の静謐さも一層際立つのです。こうした分析的な視点でオープンアクセスの高精細画像の作品を見ると、美術史の流れや技法の意図がより立体的に理解でき、作品の深みを実感できることでしょう。
- メトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)(https://www.metmuseum.org/)
- シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界 | Bunkamura(https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/14_chavannes/exhibition.html)
- 岸田劉生(著)『岸田劉生全集』、岩波書店、1979~1980
- 京都文化博物館 [ほか](編)『『白樺』誕生100年白樺派の愛した美術』図録、読売新聞大阪本社、2009
- 北澤憲昭(著)『岸田劉生と大正アヴァンギャルド (Image Collection精神史発掘)』、岩波書店、1993
